11月18日からの『高次脳特別クラス「内部表現書換えとTP誘引、共感覚、Cセルフ」』についての質問が多いようです。新刊書で読者層が広がったためだと思います。今日も、「内部表現」と「内部表現書換え」とは何という質問がありました。現在も海外出張中で、明後日から一週間は特にネットアクセスのチャンスが難しくなるので、何とか、ここにお答えしてみたいと思います。

「内部表現」は、『洗脳原論』、『洗脳護身術』、『脳とこころの洗い方』と読まれてきた方には、それなりに定義されてきた概念のはずですが、各著書では敢えて、ゆるやかな定義しかしていないためにこういった質問が出るものと推測します。

私の各著書は、専門家と全くの素人を同時に読者のターゲットとしてきています。これは、かつてのYale大学院時代の私の師、人工知能の父のひとりといわれたロジャーシャンクや、学派では、ロジャーの対極にいた現代言語学の産みの親であるノームチョムスキーが、2,3年に一度から数年に一度の頻度で出版していた各著書が、本の形態としては、一般向けの書籍として書かれていながら、その内容は、学会の専門家にとっては、極めてプロヴォカティヴな内容で、それらの著書が出版されてから相当の期間、学会で賛否両論、色々とディスカッションを引き起こす内容であった、そんな著書を目指して書いてきているからです。

例えば、ロジャーシャンクでは、Inside Computer Understanding, Script, Plans and Understanding, Dynamic Memory, Tell me a Storyといった各著書やチョムスキーでは、Logical Structure of Linguistic Theory, Aspects of the Theory of Syntax, Lectures on Government and Binding, The Minimalist Program といった各著書がそうでありました。それぞれ、一般の読者にもすんなりと読める内容でありながら、専門家には、それぞれが、その前のパラダイムを打ち砕くような内容でした。著書毎に学会が新しく作られるような、そんなインパクトがありました。

もちろん、ロジャーやチョムスキーのレベルの著書を書けると思っているわけではないですが、学者の著書のあり方としては、まさに理想であり、そういった方向性で、私の各著書が書かれています。ですから、さらっと読んでいただいてもいいし、そのまま、学会の招待講演のようなつもりで専門家に読んで頂けてもありがたいのです。実際、主婦の方から、専門分野の教授まで幅広い読者層から、賛否両論の色々なコメントを頂いています。私なりに、各著書を通して、一般向けの啓蒙と学会への提言の両方を同時にしてきたこれらの大先輩を見習っているつもりです。

実際、自分の専門分野を誰より早く開拓し、独走してきたつもりですので、大学院生相手に古巣の学会などで、話をするのもいいのですが、素人から年配教授まで、パラダイムシフトをしてもらいたい、そういった思いで各著書を著しています。10年以上前に、ハーバード大学医学部等との共同研究による、脳機能研究プロジェクトを推進していた時代に、オウム事件が勃発したころには、オウムにおどらされたマスコミに乗じた、「専門家」教授達には、「脳機能科学」などないと批判されたぐらいですから。それから10年以上たって、日本中が「脳」ブームとなったのは、隔世の感があります。ほんとに、当時は、脳機能を研究していた日本人って、私を含めて、数人ぐらいしかいなかったのですから。その後、まさに、ご質問の「内部表現」に深く関わる、私の専門研究は、世界的にも独走し続けていると自負しています。私の専門研究発表は、対テロリスト国際会議のような、軍や警察関係者に参加限定されたクローズドの国際会議ぐらいでしかしませんので、私の場合は、ロジャーシャンクやノームチョムスキーが産み出してきたような、一般啓蒙書の形をとったパラダイムシフトの本を定期的に出版していくことが、社会的な役割としても重要だと思っています。

さて、「内部表現」という言葉ですが、厳密な形式的定義はクラスに譲るとして、非形式に定義してみましょう。まず、10月のクラスの案内にも書きましたが、著書、「脳とこころの洗い方」で言っている「脳とこころ」は一つの単語として読んで欲しいのです。かつては、「脳」と「心」は、物理の世界の存在と、心理の世界の存在のような、異なる次元の存在と考えられ、これらを結びつける問題が、グラウンディング問題と呼ばれ、私の研究の中心テーマでもありました。これが、過去のパラダイムでした。現在は、「脳とこころ」は、結びつけられる存在ではなく、もともと同じものと考えています。これが現在のパラダイムです。言ってみれば、次元を超越して、全抽象度で存在しているのが「脳とこころ」です。「脳」と「こころ」と単語を分けて記述するのは、単に、記述の利便性から、異なる抽象度で同じものを呼ぶにあたって、物理の抽象度で記述する場合は、「脳」と呼び、心理の抽象度で記述する場合は、「心」と呼ぶといった記述の抽象度の違いに過ぎず、記述対象である「脳とこころ」そのものは、もともと同じ一つの存在であると考えています。例えば、神経回路の化学や物理を記述するにあたっては、脳と呼ばれる物理抽象度で記述するのが便利だから、その抽象度を選び、心理や哲学のレベルの機能を記述するには心と呼ばれる抽象度で記述するのが便利であるという記述の利便性の問題に過ぎないという立場でもあります。そして、この「脳と心」を記述しているのが内部表現です。ですから当然内部表現には、「脳」と呼ばれるときの物理抽象度の情報も、「心」と呼ばれる時の心理、哲学レベルの抽象度の情報も内包されています。

ところで、この説明では、この場合の内部表現というのは、我々がある個人の「脳とこころ」を観測している時に、その記述を呼ぶように理解されます。もちろん、それは理論的にはその通りなのですし、人工知能の研究などはまさにその立場で、内部表現をLispのプログラムなどとして記述してきたわけですが、現実問題としては、誰も他人の「脳とこころ」の中を記述することはできないでしょう。ですから、現実問題として内部表現というのは、本人が本人の「脳とこころ」を記述している場合のみ有効な概念となるでしょう。ただ、ここで重要なのは、その記述は、本を書くというような記述活動ではなく、無意識レベルの情報処理活動という意味での記述という意味合いであるということです。それが物理信号のレベル、例えばシナプスレベルでの電気信号であったとしても、こころのレベルの情報処理活動であったとしても、「脳とこころ」が行っていることはなんらかの情報処理活動であり、それがまさに「記述」であるというパラダイムです。

 

このような、「脳とこころ」の無意識、意識を問わず、また抽象度を問わない、記述が「内部表現」なのです。もちろん、その記述には、記憶情報や、本人が認識している外部世界とよばれる周囲の情報も内包されているのはいうまでもないです。このパラダイムの後ろには、宇宙は情報と情報の状態(つまり物理)から成り立っているという立場があるということも追加しておきましょう。

 

さて、11月のクラスの中心テーマである「内部表現操作」ですが、これは、外から我々が、被験者の内部表現を操作する技術です。言ってみれば、「脳とこころ」の情報処理に介入する技術です。もちろん、催眠や洗脳といった技術も内部表現操作の一つですが、本クラスで学ぶのは、もっと直接的かつ介入的な内部表現の操作の技術です。うまくいけば、当然、本人の身体状態、例えば、病であるといった状態も内部表現上の記述ですから、これを書換えることができれば、臨床的な手法としても特に有効な技術です。もちろん、被験者の思想や行動に介入的な操作をすることも可能とする技術でもあります。従って、11月のクラスの参加者には、これまで以上に厳しく、守秘義務と自己責任の誓約を行って頂きます。もちろん、医療や教育、宗教、ビジネスなどで、正当な利用を行った場合の効果は大きいものですので、これまでもこのクラスの開催リクエストは特に強かったのですが、これまでのクラスでは、色々な要因から、開示を躊躇してきた技術でもあります。これは、過去のクラスの参加者に問題があったというわけではなく、私の方が、介入的な内部表現操作の技術を開示する用意が十分ではなかったと理解してください。また、一部で、過去の参加者による守秘義務違反の例があるという報告を受けています。今回のクラスの参加者には、特に厳しい守秘義務が果たされるので、これを理解している方のみ、ご参加ください。