12月にアスコムから発売予定の新刊『超人脳』(仮タイトル)を現在推敲中なのだけど、どうも、「何故人を殺してはいけないか」という当たり前のことをちゃんと説明できてない親たちが多すぎるようで、日本社会の行く末が大変不安になっている。しっかりとした論理は『超人脳』に譲るとして、2004年に私のHPの掲示板に書いた記事を引用しておく。この続きの記事はアクセスが多いので、既に、このブログに引用してある

http://www.tomabechi.com の掲示板の2004年の2月過去記事:

>>>サトリの先にあるもの

投稿者: 苫米地英人
投稿日時: 04/02/03 17:08:52

まず、相対化という言葉が、正確ではないかも知れません。一般に「相対化」という言葉は、何らかの価値を他の価値と比較して決めることであり、また絶対化 であれば、それとは関係なく独立して価値を決めることを言うのでしょう。命を絶対化するというのは、命の値段を先に誰かが決めるということに相当し、相対 化するというのは、市場原理などで、比較して決めるということです。確かに一部の国では、命の値段が相対化され、それもかなり低価格に設定されている所も あるように感じます。一方、絶対化するのは、KENさんが言うようにそれが出来る人はいないでしょう。人間が人間の値段を決める。生物が生物の値段を決め る。これは、まさにゲーテル的「不完全性」の考え方でも説明できるような、出来ない相談です。現実問題としては、豚肉の値段は市場原理で相対的に決められ ていますが、人間の値段まで市場原理で決める近代社会はないでしょう。値段を決めるためには、箱をあけて、その商品の中身を知らなければ決められませんか ら。人間のように知的生物は、その商品の中身は、あければ壊れてしまう脳の中にありますから、値段は決めたくても決められません。
勿論、それを決める絶対的存在がいると考えるのが、いくつかの世界宗教です。

  そこでの「絶対的」というのは、カントのいうアプリオリという意味です。もしくは、老子のいう、「それだけであるもの」という意味です。数学の公理のよう に、他の何者にも依らず、未来永劫、それだけで存在し得るということです。ですから、一般的な用語でいう相対的に対する絶対的という意味と少し違うかも知 れません。当然、相対的とは、それ以外の存在すべてということになります。 そこから先は、自分の信念、もしくは、宗教心の選択です。(能動的な選択かど うかは別にして。)例えば、キリスト教の神は「絶対的」な存在です。密教でも基本は大日如来という「絶対的」な存在を前提としている宗派が多いです。だか ら、密教は仏教というよりもヒンズー教(バラモン教)に近いといわれるのです。勿論、仏教という本来の枠組みでは、(例え密教宗派でも)、絶対的な存在は ないと考えます。お釈迦様が菩提樹の下で悟ったとされる十二支縁起は、正に、全てのものは、縁起(因縁)によるもので、それだけであるものは何もないとい う哲学です。ですから、神が存在したとしても、縁起によるものであり、絶対的な存在ではあり得ないと考えられています。当然、生命も空であり、縁起による ものであるので、この意味では絶対的な存在ではないです。
 ただ、そこに戒という考え方が出てきます。自分に対する戒めです。「私は、何が何でも 決して人を殺さない」という自分に対する戒めです。何が何でもは、「絶対に」という普通の日本語で言うことが多いでしょう。だから、人の価値は私にとって は絶対であって、決して相対化しないという戒めです。これが、「洗脳原論」の「世の中には相対化してはいけないものがある」という意味です。仏教では戒め であって、やっては反則であるという契約(神との契約)を破るという意味とは違うわけです。 キリスト教世界では、人は殺してはいけないという絶対の神と の契約なわけです。(「神と契約した人以外は」という限定がついている解釈が戦争を肯定していることは「洗脳護身術」で書きましたが。)

  ところで、「中観」という見方があります。まず、「空観」というものがあります。空観は、まさにこの十二支縁起に従って、宇宙に絶対的なものはなにもな い、全ては縁起によるものであるという味方です。勿論、私たちの「現実世界」も含めてです。私たちが、存在を認めている、現実世界も、よくよく見ると、例 えば、映画のスクリーンのように、近づいてみると、沢山の画素の投影にすぎない、つまり「まぼろし」であるという見方です。「空」の味方です。私たちの身 体も拡大していくと、最後は素粒子の状態にすぎないというのと同様でしょう。ただ、これは西洋哲学の現象論とはちょっと違います。現象論的発想では、映画 館を私達が出ると、映画は消滅しなければ行けません。スクリーンでない方向をみたら映画は消滅しなければなりません。中願と対比されるときの唯識もそのよ うな解釈をされています。実際は、私たちが映画館を出たって、その映画は続くのであり、決して映画は消えるわけではないですね。これを「仮観」といいま す。その実体は空であっても、ちゃんとその映画には役割、機能がある、その意味で映画はちゃんと存在しているという見方です。ここで浮かび上がってくるの が、スクリーンが空であることを知った上で(空観)、空なるスクリーンに機能を持たせて(仮観)、それを見ている自分がいるということです。そして、とな りに席にも、ちゃんと同じことができる人がいるということです。これが正に中観です。そして、その隣の人は、実性はもちろん空であるけれども、だから自分 の内部表現を操作すれば、消してしまってもなんら変わらない存在ではないということです。だから、空観だけだと、宇宙はむなしいものだし、まさに、となり の命もただのまぼろしですが、中観ではそうはいかないわけです。
 サトリの先にあるものの大前提が、まさにこの空観、仮観、中観が当たり前のようにできた状態(円融三諦)であるわけです。