数学で記述される数理宇宙は数学の宇宙であり抽象度が高いのは言うまでもない。この世でなくあの世。ただ工学的なこの世の仕事でも多いに役に立つ。構造計算の有限要素法や生成AIの偏微分方程式はいい例。最近ではレンズの計算光学設計で中国製レンズが躍進。一方、物理学で利用される数学は物理宇宙と言う抽象度ゼロだけど人間の目には見えないだけのリアル法則を記述するから、抽象度は記述上のみで、記述される物理空間は定義上抽象度ゼロ。

同様に計算機科学におけるアルゴリズムはその裏にある代数モデルは抽象度が高いがアルゴリズムそのものは抽象度が低い。ただそれら全てを行う人類の脳内情報処理はあらゆる抽象度に広がる。

当然、大人の生活はそれぞれの抽象度に合わせた無意識の選択で対応する。それが出来ないのは相手には迷惑だが、抽象度の低い空間のみで生きてる人は自分が場違いもしくは不適切と知ることも出来ないから、そういう場は私は出来るだけ関わらないようにしている。例外は、このXとか動画配信。

啓蒙なので低抽象度を敢えて試みてる。ただ、低抽象度反応は煩わしいので匿名からの通信お断りと長年ソーシャルメディアでして来た。経験的に低抽象度は匿名が多い。本人には色々根拠があるようだけど、私には全て無責任としか感じない。国や更に大きな単位で責任感のある行動を取るのには認識や行為の抽象度が必要だからだ。

また似た例で、娯楽か芸術か、もしくは煩悩か利他性かもある。

これも悩ましい。私の感覚では音楽は母国語の歌が入った瞬間に芸術性が一気に下がる。ポピュラー西洋音楽ではビートルズ以降の伝統だ。愛だ恋だ、彼が、彼女がといった歌は煩悩表現。

オペラは、原語が分かる人には娯楽。分からない人には芸術。デビューした頃の日本では英語のビートルズの歌は芸術だったかも知れないが、今は娯楽だ。もちろん娯楽は人類に必要で何の問題もないし、ビートルズは大好きだが、英語が分かる僕には最初から芸術ではない。この二つを混同しては行けない。

ボブディランは、歌に政治性を持たせた。これも同じで政治は芸術ではない。多くの詩は芸術だが、川柳になると芸術とはいわない。芸術とはあの世の話だからだ。先の例では数学と物理学の差だ。どちらが偉いとかでなく、違うものと分からねばならない。

だから、愛知県で開催されたの国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会が、元従軍慰安婦を象徴した「平和の少女像」などの展示を中止した時の理由が間違ってる。「テロや脅迫ともとれる抗議があり安全な運営が危ぶまれる状況だ」と理由を知事が説明したが、「政治的主張は芸術でないので芸術祭では展示しない」と言えば良かっただけ。最初に展示に選んだ選考委員が芸術ではなく動員とか政治信条とか、この世の理由で選んだからと推測するが。芸術祭は芸術のみ展示。それで終わり。ベートーヴェンの歌のようにグレーゾーンはあるが、政治は間違いなく芸術ではない。

ボブディランがノーベル文学賞を取ったのは川端康成が取ったのと同じで芸術だからではなく、文学という独立した分野の話。 また、社会情勢もある。最近はノーベル物理学賞が理論そのものではなく、工学的にどれだけ成功したか、厳しく言えば経済にどれだけ貢献したかで与えられるのと同様だ。

これを書いたのは、とある場所で食事してたら横でウェイターが細かく料理の一つ一つを説明するからだ。失礼ないい方をするとうるさい。そこは本来日本でも伝統的な文化を守る場所のはずだから、特にうるささが気になった

少なくとも日本では料理は芸術のはずだ。もちろん分野にもよるけど。芸術に横からうんちくはいらない。一部の西洋文化の悪しき伝統。アメリカ発だったら困る。どこどこから取り寄せた何々という素材をこうこう料理しましたと、つば飛ばしながらすぐ横で料理の真上で不衛生に話す。マスクの時代終わったから益々不衛生。

衛生問題も気になるが、問題は、料理を言語化する行為だ。本来は日本の料理はメニューさえ不要。その食事の時間を、板前を含むもてなす側に任せて、目、鼻、舌、食感等の五感で楽しむ。五感という物理抽象度の煩悩素材を、板前らの技術と心遣いで、芸術に、そして利他に昇華する。そこに言語を挟むのは迷惑。言語の抽象度は低い。これは何、と聞かれたら答えるのはいいけど、聞きもしないのにいきなり真横で細々と説明されるのは、"時間"を破壊。

この悪しき慣習はどこかの国で抽象度の低い人達向けにビジネス理由で始まったと推測するが、日本にはいらない。そろそろやめたらどうか。最低でも料理を説明しましょうかと聞いてからにすべき。

と、ここまで書いてたら、いきなり近くで、見るからに西洋人達が昼間からビール飲んでギャハハとやりはじめた。抽象度ゼロな笑い方。昨今の政治と同じく、食文化でも日本は国際化した。